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津山城(つやまじょう)は日本の城。 所在地は岡山県津山市山下。別名・鶴山城(かくざんじょう)。国の史跡。 城郭の形式は梯郭式平山城。津山盆地の中央部に位置する。城の東部を流れる吉井川支流の宮川及び丘陵の天然の断崖を防御線に取り入れている。城の南部を流れる吉井川とその支流で西部に位置する藺田川(いだがわ)を外郭とし、その内側に城下町の主要部を形成している。 天守は破風を持たない4重5階の独立型層塔形式で、小倉城の天守を模して造られたともいわれている[1]。築城当初、天守は5重であった。その巨大さゆえに幕府に目をつけられたため、忠政は4重目の瓦を破棄し「あれは庇(ひさし)であって4重である」と言い切り難を逃れたと伝えられている。往時は広島城の76棟、姫路城61棟に次ぐ櫓の多さであったが[2]、明治6年(1873年)の廃城令により天守・櫓などの建物が破却され天守台・石垣のみとなっている。 現在は鶴山公園(かくざんこうえん)として桜の名所となっており日本さくら名所100選にも選ばれている。2005年に備中櫓が復元された。 室町時代 [編集]嘉吉年間(1441年 - 1444年)美作国の守護大名であった山名教清が、一族の山名忠政に現在の津山城のある丘陵(鶴山)に鶴山城を築かせたのが最初である。しかし応仁の乱で山名氏衰退ののち廃城となる。 江戸時代 [編集]慶長8年(1603年)森忠政が18万6千石で入封し津山藩が立藩。同年、現在見られる津山城の建設に着手。また、城地の名を「鶴山」から「津山」に改めた。 元和2年(1616年)13年の歳月をかけ、5層の天守を戴き櫓や城門などを合わせ80余棟が建ち並ぶ大規模な近世城郭が完成。 元禄10年(1697年)森氏断絶。安芸国広島藩主・浅野綱長の預かりとなる。 元禄11年(1698年) 松平宣富(越前家)が越後国高田藩より10万石で入封。以後、明治4年(1871年)の廃藩置県まで城主となる。 文化6年(1809年)、火災により本丸御殿焼失。


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