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ロバートキャンベルさんと楽しむ、秋の園遊会 |
文化・歴史 / 博物館・資料館 |
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ロバートキャンベルさんと楽しむ、秋の園遊会 27年10月17日(土) 12:00〜16:00 場所 津山市衆楽園
◆...秋の園遊会..当日...こちら
◆「曲水の宴」を語る ロバート・キャンベル 尾島治(郷土館館長) 小野陽子(医師) 竹内佑宜(観光協会会長) ◆「衆楽雅藻」を詠む テノール独唱:田中誠 詩 吟:日下国心 ◆「曲水の宴」の再現 風月軒より箏の音が響きます
曲水の宴 流觴曲水ともいう。「觴」とは盃のこと。 陰暦の3月上巳の日や3月3日に開催され、緩やかに蛇行しながら流れる水の岸辺に座して、流れ来る盃が自分の前に到達するまでに詩歌を詠ずるという風流な行事で、古代中国にその発祥があるという。水辺で行われていた禊ぎに関連する行事から、遊興の催事へと変化したといわれる。 中国の事例では、「衆楽雅藻」の序文でも「永和之蘭亭」と称されている如く、永和9年(353)3月3日に開催された曲水宴が、後に王羲之の書作品「蘭亭序」により広く世に知られることになった。 日本にも古くから伝わっていたらしく、『日本書紀』や『万葉集』にも曲水の宴を行ったことが記載されている。 明治3年(1870)に衆楽園で行われた曲水宴では、詩を成した者は盃を取り、できなければ飲めないという定めであったが、流水には盃だけではなく、こなもちや酒の肴も流されており、鴎の群れが波に揺れる様であり、また、落ち葉が流れ下っていく様であったと描写されている。
衆楽雅藻 明治3年(1870)3月2日、衆楽園において曲水宴が催された。 衆楽園は、松平家が森家から受け継いだ池泉回遊式庭園で、この頃には「北園」と称されていた。津山藩九代藩主慶倫は、庭園 を「士民遊観」の場としてその「勤苦」を慰めることができるようにと、庭園を衆楽園と名付けたという。その触書が出されたのが明治3年の正月であった。 そして、その改名されたばかりの衆楽園において、慶倫の世子康倫が催したのが、「流觴之遺典」すなわち曲水宴であった。 曲水宴には、家臣の中から文雅の士数十人が参加し、至楽の一日を過ごした。 また、その後3月6日には西御殿において書画会が催された。 この二度に亘る文雅の催しを、書画それぞれの担当者を定め、二巻に記録して残すこととなった。 そこで、曲水宴の記録を「流觴曲水」、書画会のそれを「翰墨遊戯」と題して二巻の巻子に仕上げた。作成された二巻は、東京の姿見荘にいる確堂のもとにも届けられた。 後に、両巻を整理統合、合わせて一冊本として版行されたのが、今に伝わる「衆楽雅藻」である。
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