7月18日(水)から9月2日(日)まで、勝央町勝間田、piatto nonoで上西竜二さんの個展「上西竜二 美の世界」が開催されています。 上西さんは井原市出身・在住で、県内の新進美術家育成を目的とする「I氏賞」で第2回奨励賞を受賞。 本物と見紛うほどの写実表現と独特の画面構成が生む世界観をもつ絵画作品で、将来を嘱望される若手作家です。 上西さんにお話を伺いました。 まず不躾な質問ですが、上西さんの作品は、リアリズムやハイパーリアリズムの範疇に括られることが多いと思いますが、それは意識しておられますか? そうでない方向に進もうとはしています。こういう手法は好きでやってますけど、 もともと「写実を極めよう」というような動機ではなくて、あくまで一つの手段としてとらえています。 見た人からすると、技術的な凄さがまず目に入ってきて、それ以外の部分を見落としがちになってしまうんじゃないかと、 例えば、「まるで写真みたい」と言われたりもすると思うんですが、そういう見られ方についてはどうお感じですか。 最初は気になってましたが、例えば「まるで写真みたい」というのは、本当に技術的に凄いと褒められているんだ ということがわかってきたので、だんだん気にならなくなってきました。 私も最初は技術的にすごいと思ってびっくりしたんですが、いくつか作品を見ているうちに、 対象の切り取り方というか、画面構成の方が、もっとすごくて、面白い部分なのではないかと感じるようになってきました。 そういった、見せ方という部分で作品と見る人との関係を作っていこうとしておられるんですか。 見ていただく方とのコミュニケーションというか、僕なりの視点や考え方、 世界観といったものを何らかの形で伝えることが大事だと考えてます。 だからなるべくありきたりでないもの、自分がこれまで見たことのないようなものを作りたいと思っています。 作品を通じて僕自身について直接語りかけるような、借り物ではない、自分の言葉で喋るような作品を作りたいと思っています。 なるほど、自分の言葉で表現する。 難しいことを、いわばわかりやすく、自分らしく投げかけていくということをやっているつもりです。 絵以外にも、ちょっとした言葉、今の自分が感じていることを文章としても書いています。 作品を自分の言葉として表現するためには、そういうものを練り上げていくプロセスが重要なんでしょうね。 ここまでの画面を作り上げるだけでも相当に時間が必要でしょうが、 それ以前に何を描くかを決めるまでにかなりの練り上げが必要なように感じられますね。 それだけでもかなり時間を必要として、ぼんやりと考えている時間が何日も続いたりします。 また、その中で思いついたアイデアを書き留めたりはするんですが、描き出す以前に断念する場合が多かったりします。 技術だけを目標にしているのではなくて、そうやって練り上げていった自分の言葉を よりよく伝えるための手段としての技術を高めているんですね。 大事なことは他にありますから、技術はあくまでその手段というか、入口なんです。 技術的な部分もいくらでも高めていけるだろうし、それを追求するのも興味深いことですが、 僕がやろうとしてるのはそれとは少し違います。 ただ、技術的に優れていればいるほど、驚いてもらえます。 好き嫌いを超えて、驚き、足を止め、見てもらえる。最低限それは持っておきたい。 それを持ったうえで、その先にある大事なものについて対話を始められます。 まずびっくりしてもらう、そして立ち止まって、見てもらう。そこが対話の入口になるんですね。 僕も高校時代にアンドリュー・ワイエスの「ヘルガー」のポスターを見てびっくりしたのが始まりでした。 とにかく凄い、圧倒的な技術を感じましたし、それだけではなくて、 モデルは特に美人というわけではないですが、とても美しい。 そこに技術を超えた何かがあると感じました。 そういう、自分が受けた感動を、同じように高い技術を持てれば、きっとほかの人にも同じように与えられると思います。 だから僕にとって技術はいちばん必要なものなんです。 技術的に高めていくだけではなくて、自分の言葉としてそれを表現していくためには、 内面にあるものと対象と技術とがより高いレベルで同調していかないといけない。常にそのせめぎ合いの中にいるような感じですね。 でもその中から次の大きなステップのきっかけが掴めるのではないかとも思います。 今日は大変ありがとうございました。 絵画に限らず、アートが何らかのコミュニケーションの手段であるなら、 技術を高めることは、いわば大声で人を呼び止めるための方法であり、大事なことはそこから始まる対話の中にある。 大声を出すだけで中味がなければ対話は深まらないし、対話を深めたくてもまず呼び止めて対話を始めなければならない。 この二つを両立させるのは、とても難しいことだと思います。 ただ、常にその両方を磨いていった先には、とてつもなく深い対話と理解が得られる可能性が開けていると感じられます。 |