北町 【きたまち】
津山城の北側に形成された武士の町で、津山城の北麓にあたるため御北と称したと言われている。北部の山北村との境界には、東西に一直線に続く松並木が設けられていた。 松並木の北には田んぼが広がり、その中を、一本の道が鍵型になって北屋敷(後の御対面所、現衆楽園)に向かっていた。
北町の地図
鶴山通りと県道394号線の交わる交差点。北町、山下、田町と椿高下を結ぶ大通り。
大通り沿いから見た北町。
宇田川興斎旧宅跡 【うだがわこうさいきゅうたくあと】 天保十四年(一八四三)津山藩医(江戸詰)宇田川榕庵【うだがわようあん】の養子となった興斎【こうさい】は、のちの幕府天文台【ばくふてんもんだい】に出仕し、幕府の開国・開港の騒然としたじだいにあって、同藩医の箕作玄甫【みつくりげんぽ】・秋坪【しゅうへい】らとともに国事に奔走した。また同時に『英吉利文典』【イギリスぶんてん】』『万宝新書【まんぽうしんしょ】』『地震予防説【じしんよぼうせつ】』を著わ【あらわ】すなどその活躍は広範であった。 そのころ参勤交代の制も緩和され、藩主の国元滞在が続いたこともあって、文久三年(一八六五)、興斎に対して津山への転居が命ぜられた。そこで家族を連れて移り住んだのが、この屋敷である。 やがて維新となり、明治五年(一八七一)興斎は再び東京へ移ることになるが、その間、長州征伐への従軍や、一時は江戸詰を命ぜられるなど、多忙な時期を過ごした。 市内西寺町【にしてらまち】の泰安時【たいあんじ】には、興斎が津山で娶り早世した後妻阿梶【おかじ】とその子撤四郎【てつしろう】の墓碑が、宇田川三代(玄随【げんすい】・玄真【げんしん】・榕庵の墓碑とともに祀られている。
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